2007年09月10日

サンデーサイレンス

サンデーサイレンス(1986年 - 2002年)は、アメリカ合衆国で活躍した競走馬であり、のちに日本に種牡馬として輸入されたサラブレッドである。1989年のケンタッキーダービー、プリークネスステークスに優勝し二冠を達成した他、同年のブリーダーズカップ・クラシックにも優勝しエクリプス賞年度代表馬に選ばれた。引退後は日本に輸入され種牡馬として供用されると、その産駒たちが次々と輝かしい成績を収め、競馬界に一大旋風を巻き起こした。

そのイニシャルを取ってSSと呼ばれることもある。また、サンデーサイレンスの子孫たちは日本競馬界においての大勢力となるに至り、サンデーサイレンスから伸びるサイアーラインはサンデーサイレンス系とも呼ばれる。

G1競走を6勝し、後に数々の名馬を送り出したサンデーサイレンスの生い立ちは、その活躍ぶりとは対照的なものであった。父が名種牡馬ヘイロー、母ウィッシングウェルも米G2競走の優勝馬という平均以上の血統ではあったものの、生まれたときから脚が外に曲がっているという競走馬としての欠点を持っていた。当歳(0歳)の時には下痢から脱水症状になり生死の境をさまよったことがある。1歳時のセリでは2回も売れ残った。しかも売れ残ったセリの帰りにトラックの運転手が心臓発作を起こしたため馬運車が事故に遭ってしまい、同じ馬運車に乗っていた他の馬がすべて死んだ中でサンデーサイレンスだけが生き残った。2歳時のカリフォルニア州で行われたトレーニングセールでは32,000ドルで一旦は売れたものの生産者のアーサー・ハンコックが買い戻し、彼の所有で競馬に出走することとなった。後に、調教師のチャーリー・ウィッティンガムが半分の権利を取得し、さらにウィッティンガムが取得した権利の半分を医師のアーネスト・ゲイラードが取得した。

引退したサンデーサイレンスだったが、良血とは言い難かったこともありアメリカでは種牡馬として人気が出る見込みが薄かった。そこで、すでに4歳初頭にアーサ−・ハンコックの持つ所有権の半分(全体の25パーセント)を取得していた吉田善哉が1100万ドル(当時の為替レートで約16億5000万円)で購入、100パーセントの権利を取得したため、1990年に日本に輸入された。翌1991年より社台スタリオンステーションで種牡馬生活を開始。自身の血統にノーザンダンサー、ナスルーラといった、日本で流行したことのある血統が入っていない事から、繁殖牝馬の選定の自由度も高く良質の繁殖牝馬に恵まれ、最初の世代から活躍馬を多数輩出し、有馬記念など主要のG1レースでは出場馬の大半がサンデーサイレンスの子や孫が占める事もあった等、日本の血統図を根底から塗り替えた。その後も数々の名馬を競馬場に送り出すが、2002年5月、それまでに怪我をしていた脚をかばったため左前脚蹄葉炎を併発、懸命な治療の甲斐なく8月19日に衰弱性心不全のため死亡した。現役時代は日本で走っていないことから葬儀などは行われず、遺体は社台スタリオンステーションの小高い丘の上に埋葬されている。その産駒は2003年生まれがラストクロップとなった。生前使用していた馬房は、現在ディープインパクトが使用している。

ちなみに繋養先ではメジロマックイーンと仲が良かったらしく、普段は気性の荒いサンデーサイレンスがメジロマックイーンがそばにいるとおとなしくなることが多かったという。そのせいもあってか、サンデーサイレンスとメジロマックイーンが隣同士の放牧地に放牧されていた。
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2007年09月05日

ノーザンテースト

1972年7月のアメリカ・ニューヨーク州サラトガ競馬場のセリ市で社台ファーム総帥吉田善哉からノーザンダンサー産駒の(牡の仔馬)購入命令を受けた吉田照哉(現社台ファーム代表)が10万ドル(当時のレートで3080万円)で落札。当時はノーザンダンサー産駒がそれまでのサラブレッドの常識を打ち破るほどの目覚ましい活躍を遂げており、その経緯から競走馬として、また将来の種牡馬として供用することを前提に購入された。

その後フランスに渡り、2歳時はG3レースを連勝するなど4戦2勝。翌年緒戦のジェベル賞を勝つと、フランスのクラシックレースではなく、1枚レベルの高いイギリスのクラシックへと挑戦。英2000ギニーで4着、英ダービーで5着と好走。フランスへ帰国後も好走するも勝ち切れないレースが続いたが、ラフォレ賞でG1を初制覇した。翌年も競走生活を続けたが、目立った活躍はなく引退。通算の競走成績は20戦5勝。なお、クラシックレースを勝つ事はできなかったものの、同期の仏2000ギニー馬ムーランを2度に渡って下しており、仏2000ギニーに出ていれば間違いなく勝ち負けしていただろうと思われる。

1975年4歳時に当初の予定通り種牡馬として社台ファームが日本に輸入。その後、数多くの勝ち馬が輩出し、日本競馬の血統を大きく塗り替えた名馬の一頭となった。 種牡馬入りした当初は、その容貌(短い足と大きな頭部)から、日高の生産者より「犬のような馬」と揶揄されることもあった。


1982年にテスコボーイから日本リーディングサイアーの座を奪い取ると、通算10回のリーディングサイアーに輝いた。また、1990年から2006年まで17年連続リーディングブルードメアサイアーにも輝いている。

記録としては1979年から1996年までの17年連続、また1977年産から1996年産までの20世代連続で重賞馬が輩出。1979年から2006年まで28年連続で産駒が勝利を収める。

2000年を最後に種付けは行われず、種牡馬引退となった。

2004年12月11日午後3時20分、北海道勇払郡早来町の社台スタリオンステーションで老衰のため死亡。33歳の大往生だった。
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2007年09月01日

ノーザンダンサー

ノーザンダンサーは、カナダの競走馬・種牡馬。1964年アメリカクラシック二冠馬にして、「19世紀のセントサイモン、20世紀のノーザンダンサー」という言葉まであるように、20世紀後半で最も成功した大種牡馬である。後継種牡馬も多数成功し、主流血統であるノーザンダンサー系を築いた。1964年カナダ年度代表馬、米最優秀3歳牡馬。英リーディングサイアー4回、米リーディングサイアー2回。米リーディングブルードメアサイアー1回。

ノーザンダンサーは、1961年にカナダ・オンタリオ州南部のウインドフィールズファームで生まれた。生産者はサラブレッド生産で一時代を築いたエドワード・プランケット・テイラーである。

母ナタルマはそのテイラーがサトラガセールにて35000ドルで購入した牝馬で故障のために、1960年、3歳の春に7戦3勝という成績を残し引退した。ナタルマが繁殖入りしたのは6月だったので配合相手に選択肢はなく、自身の持ち馬でその年種牡馬入りしていたニアークティックを配合した。

翌年5月27日ナタルマは鹿毛の牡馬を出産した。遅生まれの上に小柄だったが、テイラーはこの仔馬を高く評価し25000ドルという高値で売り出した。当時のカナダでそんな高額な馬を購入する者がいるはずもなく、買い手が付かずに生産者であるテイラーは自身の持ち馬として走らせることになった。テイラーは、父ニアークティック(新北区)、母の父ネイティヴダンサー(先住民の踊り子)よりノーザンダンサーという名前をこの馬に付けた。ノーザンダンサーはデビューする頃になっても発育が悪く、体高は最高で15.2ハンド(約154.4cm)にしかならなかった。
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2007年08月27日

ウインドインハーヘア

ウインドインハーヘアはアイルランドで生産され、イギリスで調教された競走馬。引退した現在は日本の北海道勇払郡安平町のノーザンファームで繁殖牝馬として過ごしている。日本ではブラックタイド、三冠馬ディープインパクト兄弟などを輩出した名牝として知られている。

競走馬としては1994年のエプソムオークスで後のアイリッシュダービー馬バランシーンの2着に入り、翌1995年には妊娠中ながらドイツのG1アラルポカルに優勝した。翌年誕生した父アラジとの子はグリントインハーアイと名付けられたが、この馬が競走で1勝も出来なかったため日本のノーザンファームへ売却されるきっかけとなったという(この後2番仔ヴェイルオブアヴァロンが活躍した後に買い戻しのオファーがあったという)。

その後は輸入される以前にアメリカで産んだレディブロンドや、日本での産駒ブラックタイド、ディープインパクトらが活躍している。ウインドインハーヘアが外国で産んだ牝馬のうち3頭が日本に輸入されている。その3頭はヴェイルオブアヴァロン(ノーザンファーム)、レディブロンド(ノーザンファーム)、スターズインハーアイズ(矢野牧場)である。
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2007年08月24日

ジェニュイン

ジェニュインは、日本の競走馬である。馬名の由来は「正真正銘の、本物の」を意味する英語"Genuine"から。主戦騎手は岡部幸雄である。フジキセキ、タヤスツヨシと並び、大種牡馬サンデーサイレンスの初年度産駒の代表格である。

サンデーサイレンスの初年度産駒として1994年10月15日にデビュー。皐月賞のトライアル競走である若葉ステークスで、1位入線のルイジアナボーイが降着したことにより繰り上がりで1着。皐月賞では2歳チャンピオンのフジキセキが屈腱炎で引退し不在の中、3番人気で優勝。2着は同じサンデーサイレンス産駒のタヤスツヨシとなり、サンデーサイレンス産駒初めてのクラシック制覇がワンツーフィニッシュとなった。次走の東京優駿(日本ダービー)では、タヤスツヨシの2着に敗れた。

秋には3歳クラシック路線である菊花賞には進まず、京王杯オータムハンデキャップ(2着)、毎日王冠(6着)から天皇賞(秋)へ向かう。天皇賞(秋)では惜しくもハナの差でサクラチトセオーの2着に敗れたが、馬の距離適性を考慮したGI戦線の歩むパイオニアとなった。しかし、続く有馬記念では「風を嫌がって」マヤノトップガンの10着に大敗。

翌1996年の春シーズンは中山記念がサクラローレルの2着、安田記念はトロットサンダーの4着と勝ちきれない。秋シーズンは天皇賞(秋)で1歳下のバブルガムフェローの14着と大敗。迎えたGIマイルチャンピオンシップでは、1番人気となるも4.9倍と押し出された形であった。しかしレースでは1番人気に応えショウリノメガミに半馬身差をつけてGI2勝目を飾った。その後、年末の有馬記念に果敢に挑むもサクラローレルの14着と再び大敗を喫してしまう。

1997年は安田記念から始動し、タイキブリザードの2着に入った。札幌記念(エアグルーヴの4着)、毎日王冠(バブルガムフェローの5着)を経て、天皇賞(秋)ではエアグルーヴ、バブルガムフェローに続く3着と善戦したが、またも盾には届かなかった。引退レースとなったマイルチャンピオンシップはタイキシャトルから大差の9着であった。

切れる足がなかったためなかなか勝ちきれず、GI2勝(2着3回)ながらもGII・GIIIでは勝ち星はなかった。
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2007年08月21日

タヤスツヨシ

1994年の札幌競馬場でデビューし3戦目に初勝利を挙げる。その後暮れの阪神競馬場のエリカ賞で2勝目を挙げ、ラジオたんぱ杯3歳ステークスに出走、レコードタイムで優勝。

翌1995年は共同通信杯4歳ステークスから始動。ラジオたんぱ杯3歳ステークスでハナ差(→着差を参照)競り落としたナリタキングオーに雪辱を果たされる。その後若葉ステークスでは不利もあって5着。そして皐月賞、この年のクラシック三冠確実と言われていたフジキセキの戦線離脱で混戦ムードが漂う中、ジェニュインにクビ差の2着に入る。東京優駿(日本ダービー)では単勝1番人気となり、見事その期待に応え優勝。サンデーサイレンス産駒初の東京優駿(日本ダービー)制覇、鞍上の小島貞博は1992年のミホノブルボンに続く東京優駿(日本ダービー)2勝目(当時史上10人目)であった。しかし、最後の直線コースで斜行した上、良馬場(→馬場状態を参照)で行われたにも関わらず走破タイム(2分27秒3)が前週に行われた優駿牝馬(オークス)優勝馬ダンスパートナーの走破タイム(2分26秒7)よりも遅かった。

休養をはさんだ菊花賞戦線では春で燃え尽きてしまったかのように神戸新聞杯、京都新聞杯で相次いで敗れ、迎えた菊花賞も単勝5番人気まで評価を下げ、レースでもエリザベス女王杯を蹴ってこちらに出走してきたダンスパートナーに先着されてしまう(ダンスパートナー:5着、タヤスツヨシ:6着)。その後は放牧に出され翌年の天皇賞(春)を目指して調整されていたが屈腱炎を発症。そのまま現役を引退し種牡馬入りした。

産駒は現在までにホロービュレット、マンオブパーサー、ビービートルネード、ジェラムスペシャルの4頭が何らかのG1競走(ホロービュレット以外は国際格付け無し)に優勝している。
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